物語の全貌を掴む上で欠かせないのが、蜻蛉日記のあらすじとわかりやすい解説、そして作者を取り巻く特異な環境です。本作は上・中・下の3巻から構成され、天暦8年(954年)の求婚期から、天延2年(974年)の大晦日に至る約21年間の出来事が時系列で記されています。
作者である藤原道綱母の生涯と経歴を振り返ると、彼女は受領(地方官)階級である藤原倫寧の娘として生まれました。当時「本朝三美人」の一人に数えられるほどの美貌と卓越した和歌の才能を誇り、高いプライドを持つ知識人女性でした。そんな彼女に熱烈なアプローチを仕掛けたのが、後の摂政関白・藤原兼家です。兼家からの情熱的な求婚を受け入れて結婚したものの、当時の婚姻形態は通い婚(妻問婚)。男が女のもとへ通ってくる形式であり、兼家にはすでに正妻(時姫・後の藤原道長らの母)が存在していました。
では、蜻蛉日記はなぜ書かれたのか、その執筆理由と背景はどこにあるのでしょうか。当時の平安貴族社会で流行していたのは、『竹取物語』や『うつほ物語』のような絵空事のファンタジー(作り物語)でした。作者はそうした都合の良いフィクションに対して強い不満を抱き、「世の中のありふれた作り物語の嘘に比べ、高貴な男と結婚した自分の儚く苦しい実生活をありのままに記録すれば、世の女性たちの鑑(教訓)になるのではないか」という強烈な批評精神から筆を執ったと明かしています。
やがて兼家の足は遠のき、次々と別の女性へ移り変わっていきます。藤原道綱母と藤原兼家の夫婦関係の真相は、単なる愛人関係の破綻にとどまりません。夫が中央政界の権力階段を駆け上がる一方で、自分は実家の庇護を失い、一人息子である道綱の将来だけを頼りに生きていかざるを得ないという、当時の受領階層の女性が抱えた構造的な無力感と孤立が、この日記を凄絶な文学へと昇華させたのです。