岩井忠熊氏の思索と生涯を語るうえで、避けて通れない原点が1943年(昭和18年)の学徒出陣です。京都帝国大学文学部で国史学を専攻していた若き岩井氏は、学業半ばで召集を受け、海軍予備士官として軍務に就くこととなりました。
配属されたのは、海軍が極秘裏に開発した人間魚雷「回天」の訓練基地(山口県・光基地)でした。脱出装置がなく、一度発進すれば生還を期すことができない必死兵器の搭乗員として、連日繰り返される過酷な訓練に従事。「いつ出撃命令が下るか分からない」という極限状態の中で、死と隣り合わせの日々を過ごしました。
出撃直前の段階で1945年8月15日の終戦を迎えた岩井氏は、仲間たちが次々と南海の藻屑と消えていく現実を目の当たりにしながら生き残りました。この「生き残ってしまった」という拭い去れない葛藤と悔恨が、戦後の氏を歴史研究の道へと駆り立てる決定的な原動力となったのです。