真田幸村はなぜ関ヶ原不在?西軍についた理由と第二次上田合戦の真相

真田幸村はなぜ関ヶ原不在?西軍についた理由と第二次上田合戦の真相

真田幸村はなぜ関ヶ原不在?西軍についた理由と第二次上田合戦の真相の基礎知識と応用に迫る! わかりやすい言葉でご紹介しています。

九度山で約14年もの隠忍自重の日々を送った真田幸村に、歴史が再び光を当てたのが慶長19年(1614年)の「大坂の陣」でした。豊臣秀頼からの出城要請に応じた幸村は九度山を脱出し、大坂城に入城します。

幸村は大坂冬の陣において、城の最弱点とされた南側に強固な出城「真田丸」を築城。徳川軍に大損害を与えてその名を天下に轟かせました。さらに翌年の大坂夏の陣・天王寺口の戦いでは、家康の本陣目がけて決死の突撃を敢行し、家康の馬印を倒して自害を覚悟させるまでに追い詰めました。

関ヶ原の戦いから大坂の陣に至る、真田信繁(幸村)の激動の生涯を年表で振り返ります。

  • 1567年(永禄10年):真田昌幸の次男として誕生(諸説あり)。
  • 1585年(天正13年):第一次上田合戦。上杉氏、後に豊臣秀吉のもとへ人質として送られる。
  • 1600年(慶長5年):犬伏の別れを経て西軍に参加。第二次上田合戦で秀忠軍を撃退するも、西軍敗北により九度山へ配流。
  • 1611年(慶長16年):父・昌幸が九度山で死去。
  • 1614年(慶長19年):大坂冬の陣。「真田丸」を築き徳川軍を撃破。
  • 1615年(慶長20年):大坂夏の陣。天王寺・岡山の戦いで家康本陣に突撃後、安居神社にて討死(享年49)。

幸村自身は大坂の地で散ったものの、東軍についた兄・信之の血統は信濃松代藩十万石として幕末まで続き、真田の家名は見事に守り抜かれました。

清水 千尋
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清水 千尋

マーケティングと消費者心理のトレンドを分析し、現代のヒット商品の背景を読み解きます。