インターネット上の掲示板やSNSでは「線路に入ったら1億円の賠償金」という説がまことしやかに囁かれてきた。結論から言えば、一般的な線路立ち入りによる遅延事故で、個人に対して億単位の賠償金が実際に確定・支払われるケースは極めてまれだ。鉄道会社が要求するのは、あくまで「事故によって直接生じた実害額」に限られるためである。
損害額の計算根拠となるのは、主に他社線への振り替えにかかった費用(振替輸送費)、振替に伴う精算業務の人件費、そして車両や設備の修繕費だ。過密ダイヤを誇る東日本旅客鉄道(JR東日本)をはじめとする主要事業者において、運行見合わせが数十分程度であれば、算出される実害額は数十万円から数千万円程度に収まることが大半である。もちろん、新幹線の全線不通や特急列車の長時間運休を直接引き起こした場合は1,000万円を超えるケースも存在するが、無制限に請求額が跳ね上がるわけではない。
日本の鉄道運送事業法制下では、過失による事故に対して懲罰的な賠償を課す仕組みが存在しない。鉄道会社側も、裁判費用や回収不能リスクを冷徹に天秤にかける。非現実的な高額請求を突きつけるよりも、確実に回収可能な実費相当額を算定して示談交渉に臨むのが実務上のリアリティだ。