大谷吉継を語る上で避けて通れないのが、生涯彼を苦しめた重病です。古くから「癩病(ハンセン病)」を患っていたとされ、晩年には顔面がただれ、視力もほぼ失われて歩行すら困難な状態に陥っていました。
しかし、肉体の自由を奪われながらも、吉継の頭脳と采配力は研ぎ澄まされていました。豊臣秀吉はかつて、「大谷刑部に100万の軍勢を預けて、采配を振らせてみたい」と絶賛したといいます。秀吉の信任は厚く、九州征伐や小田原征伐における兵站(ロジスティクス)補給を完璧に差配し、越前国敦賀5万石(のちに増封)の城主へと抜擢されました。
敦賀城主となった吉継は、日本海交易の要衝であった敦賀湊の整備や治水工事を積極的に推進し、領民から深く慕われる名君としても優れた統治手腕を発揮しました。吉継の武名と知略は、敵味方を問わず全国の大名たちに広く恐れ敬われていたのです。