インターネット上の議論や読者の感想を見渡すと、本作に対していくつかの典型的な誤読や皮相的な解釈が見受けられます。長年にわたり国語教育の現場でも議論されてきた誤解を検証し、作品の真意を掘り下げます。
第1の誤解は、「Kはお嬢さんに振られたショック(失恋)で衝動的に自殺した」という解釈です。前述の通り、Kは先生とお嬢さんの婚約を知らされた際、取り乱すどころか落ち着いた態度を保っていました。Kにとって最も致命的だったのは、肉欲や世俗的な幸福に心を奪われ、自らが命懸けで信奉してきたストイックな信仰・求道心に背いてしまったという「自己矛盾」です。先生の裏切りは、その自己崩壊にとどめを刺す引き金に過ぎませんでした。
第2の誤解は、「先生は冷酷非情なサイコパスであり、ただの悪人である」という見方です。もし先生が純粋な悪人であれば、Kの死後に良心の呵責で自らを縛り、十数年もの間、生き地獄のような禁欲生活を送る必要はありませんでした。先生はむしろ、人一倍強い倫理観と潔癖さを持っていたからこそ、自らの内側に潜んでいた卑小なエゴイズムを許すことができず、自死という形でしか魂の落とし前をつけられなかったのです。
そして第3の論点が、作中で象徴的に語られるこころ 明治の精神と殉死の意味です。遺書の中で先生は次のように書き記しています。
「明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がしました。最も強く明治の影響を受けた私共が、其後に生残つてゐるのは、時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました」
日露戦争を勝ち抜き、国家の近代化と個人の自立を同時に達成しようともがいた「明治」という時代。そこで生まれた近代知识人は、封建的な共同体から解放された自由と引き換えに、「個の孤独(孤立)」という重い十字架を背負うことになりました。乃木将軍の殉死が封建的忠義の象徴であったとするならば、先生の死は「自由と自我に目覚めながらも、罪の意識に耐えきれなくなった近代知識人の精神的殉死」であったと言えます。