和歌山県の県都が現在の地に定められた背景を紐解くには、江戸幕府を開いた徳川家康の十男・徳川頼宣が1619年に入国して以降の紀州藩の強大な歴史的基盤に目を向ける必要があります。当時、紀州徳川家は55万5000石を誇り、尾張・水戸と並ぶ「御三家」の一角として西日本の要衝を担っていました。和歌山城を中心とする城下町には武家屋敷や商人町が集積し、近世を通じて紀伊半島全体の政治・経済・文化の絶対的中心地として君臨していたのです。
1871年(明治4年)8月29日の廃藩置県によって和歌山県が成立した際、新政府にとって行政機能をゼロから他地域に創出する選択肢は現実的ではありませんでした。行政文書や治安維持の組織、さらには人口集積や物資の集散ルートが既に完成していた城下町を首府に据えることは、統治の連続性を保つための必然的な判断でした。当時、紀南地方の中心であった田辺や新宮を推す声がなかったわけではありませんが、経済規模や人口密度、さらには中央政府(東京・大阪)との連絡速度において、和歌山城下は他を圧倒していたのです。
地理的条件も決定的な要因となりました。紀伊半島の大部分は険峻な紀伊山地が占めており、陸路による南北の移動は当時極めて困難を極めました。これに対し、和歌山市は一級河川である紀の川の河口部に位置し、内陸部からの木材・物資の舟運を統括できただけでなく、大阪湾や紀伊水道を通じて上方(大坂・京都)と直結する海運の要衝でした。この「水運と海運の結節点」というインフラ面の強みが、和歌山市が県庁所在地に選ばれた最大の理由として記録されています。