当時の開墾現場がどれほど混乱し、朝廷の目論見が外れていたのかは、正史『続日本紀』の記述に生々しく刻まれています。
723年(養老7年)4月の勅令には、次のような趣旨の文言が記されています。
「百姓(人民)の人口は日々増え、田地は狭小となっている。開墾を勧めようと欲するが、田を得てもやがて収公されることを恐れ、誰も自ら進んで溝を掘り開墾しようとしない…」
朝廷自身が「返還されるのが嫌だから民が土地を開墾しない」という現場の心理的抵抗を正確に把握していながら、打ち出した妥協策が「三世一身」という有期限の保護に過ぎませんでした。そして743年(天平15年)の墾田永年私財法の勅令では、ついに自らの失敗を認めることになります。
「それ三世一身の法を聞くところによれば、年限満つるに及びて、収授せらるるをもちて、農夫怠惰にして、開墾せる田また荒廃す…」
「期限が来て国に没収されるため、農民がやる気を失い(怠惰となり)、せっかく開墾した田んぼがまた元の荒野に戻ってしまった」と、公式記録で制度の完全な破綻を自白しているのです。現場の農民たちにとって、血と汗を流して荒野を拓いた土地を「国家の都合」で手放す苦痛は計り知れず、現場での衝突や隠蔽工作、書類の偽造が横行したことが近年の木簡研究などからも明らかになっています。