2013年11月、歌舞伎界に激震が走った。大名跡「歌舞伎座」での襲名披露を翌年に控え、絶頂期にあった中村福助 (九代目)が脳梗塞で緊急搬送されたのだ。一時は命すら危ぶまれ、一命を取り留めたものの言語障害と右半身の麻痺が遺った。医師から突きつけられた厳しい現実に、周囲の誰もが舞台復帰は絶望的だと息をのんだ。
だが、妻だけは決して諦めなかった。「もう一度、あの舞台の上に立たせる」。その強い決意のもと、病院での付き添い生活が始まった。朝から晩まで夫の手足を擦り、発話のトレーニングに根気強く付き添う日々。精神的なショックで打ちひしがれる夫の心をやさしく、時に厳しく包み込んだ。リハビリの現場では、理学療法士の助言を克明にメモし、自宅でも再現できるよう徹底的に環境を整えたという。
奇跡は、無償の愛と執念から生まれた。懸命なリハビリが実を結び、2018年に5年ぶりの舞台復帰を果たしたのだ。車椅子での登場ではあったが、観客からは割れんばかりの拍手が送られた。客席の後方で涙をぬぐう妻の姿があったことは、当時の梨園で語り草となっている。