安倍晋太郎の歩んだ道筋は、戦前・戦後の激動期を色濃く反映したものでした。エリートコースを歩みながらも、決して順風満帆な平坦な道ばかりではありませんでした。
東大法学部から毎日新聞社へ|青年期の挫折と鍛錬
学歴をたどると、旧制第六高等学校(現・岡山大学)を経て東京帝国大学法学部政治学科に進学。在学中には海軍滋賀航空隊に予備学生として配属され、神風特攻隊の出撃直前に終戦を迎えるという極限の戦争体験を経験しています。この「生き残ってしまった」という強烈な原体験が、後の平和外交への強いこだわりへとつながっていきます。
1949年に大学を卒業後、毎日新聞社に入社。政治部記者として国会や首相官邸の取材前線に立ち、政治の力学や世論の動向を冷静に見つめる眼養を養いました。当時の同僚記者たちの証言によると、現場取材に泥臭く駆け回り、特ダネを連発する敏腕記者として頭角を現していました。
岸信介の秘書官から政界進出へ
1956年、当時の外務大臣であった岸信介の長女・洋子と結婚。これを契機に毎日新聞社を退社し、岸信介の秘書官に転身します。翌1957年に岸内閣が発足すると内閣総理大臣秘書官に就任し、国家最高中枢の意思決定を間近で体感することとなりました。
そして1958年、実父・安倍寛の地盤であった旧山口1区から第28回衆議院議員総選挙に出馬し、34歳の若さで初当選を果たします。ここから、通算11期にわたる代議士生活が幕を開けました。
外務大臣として打ち立てた「創造的外交」の金字塔
農林大臣や通商産業大臣などの重要閣僚を歴任した後、1982年に発足した第1次中曽根内閣において外務大臣に就任。以後、4期連続で外相を務めることとなります。在任期間中、訪問した国は世界80カ国以上、地球を数十周するほどの距離を移動し、「フットワーク外交」と称賛されました。
特に特筆すべきは、当時泥沼化していたイラン・イラク戦争における調停外交です。日本独自の全方位外交を展開し、双方の首脳と直接対話を行える唯一の西側主要国リーダーとして国際社会で極めて高い存在感を示しました。当時、外相秘書官として父に同行し、国際交渉の現場に張り付いていたのが若き日の安倍晋三氏でした。